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紡 

東郷織物とは

- Tougou Orimono - 

 締機の工法を完成させた永江伊栄温の三代目に当る東郷治秋と、薩摩絣の発明者である永江明夫の二人で都城に創設した工房、今では唯一の薩摩絣の製造元です。

 通常、絣(かすり)の工程は、大きく分けて「デザイン」「染色」「絣締め」「織布」四部門の分業制が大抵ですが、東郷織物ではその全ての工程を自社内での作業体制にこだわります。受注も原則避け独自のデザインを重要視しています。
 その理由は、各部門の信頼が厚く連携がスムーズで生産ロットも少数で済みます。工程途中での急な変更にも対応でき、工期の限定も無く納得できるまで丹念な仕事ができます。そのうえ全体の進捗状況が常時把握出来るなど「独創的なモノづくり」には欠かせない生産体制を敷いています。


【デザイン】

全体の図柄を自社で創作しております。感覚的なものを主軸として時間はかけず、数日かけても完成しないものは破棄しています。絵画的なものより抽象的なものを得意としています。


【染】

阿波藍(あわあい)による化学人造藍染料を一切排した純粋な正藍染(しょうあいぞめ)です。時間が非常にかかるうえ、昨今の原料高騰が悩みの種です。


【絣締め】

多様な絣使いによる特殊締め工法で一柄の絣作りに数ヶ月間を要します。


【織布】

絹に比して滑りが悪く、糸も信張さに欠け強度も弱く大変な苦労です。後継者は大島紬の経験等がない全くの新人から養成しています。

沿革

- history  - 

1947年 (昭和22年)

東郷治秋が新天地を求め鹿児島より都城に工場を移し、永江明夫と二人で現在の製品の基礎を作りました。1950年に法人化。

1955年(昭和30年)

東郷治秋、永江明夫の二人で新商品開発に着手、色大島の完成を見る。さらに木綿による今日の現代薩摩絣の礎を築く。

1974年(昭和49年)

谷口邦彦、東郷織物工場入社。義父、永江明夫に師事

1985年(昭和60年)

都城市市民文化賞授賞(永江明夫)

1997年(平成9年)

宮崎県県文化賞授賞(永江明夫)

1998年(平成10年)

黄綬褒章授賞(永江明夫)

1999年(平成11年)

代表理事に就任。都城絹織物事業協同組合理事長就任(永江明夫)

2003年(平成15年)

銀座三越屋にてグループ展(谷口邦彦)

2006年(平成18年)

京都三条ギャラリーにて個展(谷口邦彦

2008年(平成20年)

鹿児島黎明館にて個展。銀座交詢ビルにて個展(谷口邦彦

2009年(平成21年)

銀座交詢ビルにて個展(谷口邦彦

2010年(平成22年)

GINZA888ビル銀座の杜にて作品展(谷口邦彦

創業者

- founder  - 

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永江明夫

『綿薩摩 手織絣 誠実無比』

 かの武者小路実篤氏が永江明夫の綿薩摩を身にまとった時、その余りにも素晴らしい肌触りと類のない着心地のよさ、そして絣の素晴らしさに感動し自ら書き贈った言葉です。この言葉に言い表されたとおり、永江明夫の半生は綿薩摩作りに捧げてきたと言っても過言ではありません。人柄そのものを言い表した「誠実無比」。糸一本一本にこだわり、絣一つ一つにこだわり、すべての人の憧れとなる織物を作り上げる。織物一筋に傾けてきた情熱が、「幻の綿薩摩」と呼ばれる作品の数々を生み出したのです。
 永江明夫は1915年、奄美大島に生まれました。祖父が大島紬の締機(しめばた)の発明者という一家で育ち、織物は身近にありましたが、福井の大学を出て、大手ゼネコンに就職し技術者としてスタートを切りました。
 その後、第二次世界大戦が始まります。永江にも召集令状が届き戦場へ。シベリア抑留の身となり2年間シベリアの極寒の中で言葉では言い表せない生活を送り、終戦を迎えます。やっと過酷な抑留生活から開放され故郷の奄美大島へ帰ろうと鹿児島までやってきたとき、故郷の奄美大島はアメリカの占領下、日本の領土ではありませんでした。故郷を失い親戚一同にも会えず、若い永江はそのまま九州にとどまります。そして、宮崎県の都城で工房を開いている「東郷織物」に出会います。そこで永江明夫の第二の人生が始まりました。

『綿薩摩誕生まで』

 「何時の世までも残る織物。その織物に自分が生きた証を残したい」と始めた第二の人生です。最初は一般に言われていた「薩摩絣」、今の宮古上布の織りを始めます。しかし、永江が追い求めていた織物とは何かが違うのです。そういう気持ちから何年も掛けて織の模索が始まります。
 そんな中、昔から日本人に愛され、着用されてきた「木綿」が、大量に生産できる素材ゆえ余りにも粗雑に扱われているのを目にし、一つの考えが永江の中から生まれました。「日本で一番素晴らしく使い勝手の良い木綿をもっと大事に使ってもらえる方法は無いか。大事に着てもらえる方法は無いか」と。ここから「永江の綿薩摩」づくりが始まります。
 まずは質感を良くすること。絹に負けないような手触りのものをと考え、木綿の中でも一番細い糸を使うことにしました。そしてそこに日本で一番素晴らしい技術を施そうと考えたのです。ここで浮かんだのが永江の故郷、大島紬で行われていた締機を使った絣の技術です。
 しかし、素材を絹から木綿に変えただけでは、締機の技術はなかなかなじんでくれません。糸に糊付けをするにも、絹糸は糊が乾けばピンと糸が張り、絣の記しつけも上手くいくのですが、木綿は糊が乾くとその重さに負け、ダラリと垂れ下がってしまい、絣の位置もずれやすくなり、機に掛けたとき絣が合わなくなってしまうのです。また絹糸はすべるように織れるのに対し、木綿糸はすべりが悪くオサが引っかかってしまったりとなかなか思うように進みません。大島紬を織り慣れている織り子さんでも手も足も出ないと言う状態が続きました。
 何年もの歳月を掛けて、やっと織りあがった綿薩摩でしたが、次なる難題は「水につけて洗うと縮んでしまう」と言うことでした。そのため織り上がったばかりの織物を何度も水に潜らせて縮まるだけ縮ませ、色を落とすだけ落として、製品として出来上がった織物からは極力色落ちがなく、縮みが一切ないという状態に仕上げていきました。
これだけの工程に堪えるためには、機に掛けるときに、普通の織物よりも幅を広く取り、縮み具合を計算してから織りの作業に入らなければなりません。また、染色も色落ち具合を考えて濃度を変えていかなければなりません。これらの計算にはエンジニアとして働いていた当時の経験が生きています。
 このような試行錯誤の結果、思い立ってからなんと15年もの歳月を掛けて、やっと現在の『綿薩摩』、「しなやかで肌触りが良く、質感と風合いのある織物」が出来上がりました。

代表者

- director - 

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谷口邦彦

伝統と血筋と革新

 都城絹織物事業協同組合理事長の谷口邦彦、自ら大島紬のデザインから織り、品質管理までをするダンディーな職人である。

 「もともとここ都城で大島紬の生産が始まったのは、奄美大島で伝統技法を身につけた人々が、よりよい環境、素材、市場を求めて都城にその新天地を見つけたという歴史があります。ただ、その源流は、閉め機(しめばた)工法を開発し、本場大島紬の製造工程を一新、その発展に多大な貢献をした『永江伊栄温(ながえいえおん)』。それがうちの祖先ですから、本場大島紬の本流と言ってもいいかもしれません」と谷口は語る。

 「その家系から、今度は奄美大島で初めて大島紬の撚糸工場を開いた人が、うちの祖父にあたるんですよ。その後も、次々と新しい技法を取り入れ、大島紬に堅牢度や色の深みを与える手法を開発したり、大島特有の“てり”を抑えた渋い風合いの色大島を開発したのも、ここ都城ですつまり私の個人的な意見ですが、“伝統”というものは、“革新・改良”と表裏一体のものだということです」。

 その思想は、都城で作られる本場大島紬のすべてを網羅した現代的な製作工房、N.A.ギャラリーへと繋がるのである。

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